知多の歴史



●戦時体制下の知多産業は飛行機生産を急ぐ!

昭和12(1937年)7月7日、北京の南西6kmの蘆溝橋付近で、日本軍の 練習中に「発砲事件」が起きた。これが8年間 におよぶ日中全面戦争の切っ掛けとなった。

ここ知多地方においても戦争に向けて様々な変化が現れてきた。  南知多の観光施設として賑わった内海のサンドスキー場も、細かい砂が鋳物の型材として良いことから兵器を増産するために採掘され、  この頃にはかつての「美しい砂浜」としての姿を留めない、見るも無惨な様相となってしまった。日常においても、戦費を調達するための統制経済により、人々の暮らしは日増しに厳しい耐久生活に追い込まれていった。

そして日米戦争、1機でも多くの飛行機を……」の要求が強まり、そして知多にも  航空機産業が登場したのである。飛行機の生産は一刻を争うということで、阿久比の山を削り衣浦の海を掘って海岸を埋め立て、何とか「土地」ができたところから工場を建設した。これが中島飛行機半田製作所である。工場ができれば即生産といった非常体制がとられ、艦上攻撃機「天山」と偵察機「彩雲」が  生産された。成岩に日本碍子や川崎重工業が進出してきたのも、この頃のことである。
た、大府にも三菱航空機知多工場(大府飛行場)があった。ここは通称「飛竜」と呼ばれた爆撃破の組立工程を受け持っており、完成した 飛竜はこの飛行場から飛び立っていった。     

昭和18年も後半になると、戦況はいよいよ切迫し「軍需会社法」が公布され、軍需生産 以外は全て犠牲にされることになった。そして知多半島内の生産力は、中島飛行機の一点に集結された。東洋紡績は中島飛行機の山方工場に、大日本置酒や主要な織布工場は倉庫などに転用された。農業も、戦時下の産物として軍用ロープの原料となるマオランの栽培が奨励され、阿久比では苦心のすえ「軍需産業」に成長した。

中島飛行機半田製作所の航空機生産は、「天山」と「彩雲」で、終戦までに併せて1,357機が造られた。従業員は最高時が26,000人、うち9,000人が正規の従業員、あとは徴用工や動員学徒、女子挺身隊などであった。

戦中の知多の織物業はどうであったか。もちろん統制経済から逃れることはできず、そ    れまで輸入の大半を占めていたアメリカ綿やインド綿がストップ、中国綿だけとなっては原綿の絶対量が不足し、統制がどうのという前に「織りたくても織れない状況」に追い込まれた。多くの機屋が織布から離れ、当主は 軍需工場に勤めるなどで急場を凌いでいた。