男の旅は一人旅 紀勢編 2
紀伊長島町の国道から県道へ逸れ、不安ながらも走り続けると
「有久寺温泉ここを右折」の看板。この道で合ってた、と安堵するとともに、
「この道?!」。山へと続く細い道。さらに走っていると道幅が一気に狭まり、
車一台分の幅しかなくなった。その一本道のどんづまりが有久寺温泉有久寺荘だった。
「ここかあ・・・」まわりはうっそうとした杉木立に囲まれ、ぼろぼろの
建物群が建っている。どれもまさに廃屋と呼ぶにふさわしい。
そもそもメインの建物がどれかわからず、メインエントランスもわからない。
有久寺温泉の額がかかる建物の戸を開けると、狭い玄関があり、いきなり
客室になっている。すいませんと呼びかけるが誰もいない。気を取り直し、
屋根にコケや草が生えた建物を覗いてみるとモノが散乱しており、
もう10年くらい誰も入っていない物置といった感じだった。当然誰もいない。
ひときわ立派な建物は薬師堂になっており、ここにも誰もいない。
薬師堂の下に流れる川沿いに源泉の湧くお堂があった。覗くとにじみ出るように
ごく少量の湯が流れており、湯はたまっておらず臭いもしない。
ヒシャクが置かれていたが、当然飲めるほど湯がない。
宿にいながら宿に電話をしてみると、「ありくじ」と書かれた建物
(後にこれが食堂だとわかる)からジリリリリリと鳴り続けるが誰もいない。
そして圏外になって携帯が不通になった。電波の入るところは
ごく限られているようだ。よく考えるとこんな山奥に車が一台もない。
宿泊客のものも宿主のものもない。ホントに誰もいないのだ。
途方に暮れた。おかしい。30分ほど前電話したときには
女性が出たではないか。時刻は5時半をすぎた頃だ。おーい、どうなっとんだ!
薄暗くなってきた山奥で廃屋に囲まれて一人取り残されている。
かなりブキミな状況だ。そしてちょっとイライラしてきた。
どうしょうもないし、とりあえず風呂に入って待とうと思った。
風呂からあがってきても誰もいなかったら、キャンセルということにして
紀伊長島の町まで引き返そう。

外観 川越しの外観

薬師堂 泉源
浴室は川沿いに別棟でつくってあり、隣に加熱のためのボイラーがあった。
コンクリートの小さな建物で、廊下の壁が思いっきり斜め。
地形に逆らわず建っている。浴室は小さく壁も浴槽も岩。そして換気設備が
いっさいないのでものすごい湿度だ。そしてものすごく薄暗い。
湯気で写真撮影不可能。かなりブキミな浴室で、夜一人で入れといわれたら
かなり怖い。湯はおそらく無色透明。微硫黄臭で味はほとんどない。
熱めに加熱してあり、浅めの浴槽に寝そべってつかる。と、意外にも
排水口から湯が吸い込まれていた。まさかこんな山奥の秘湯が循環とは。
さっきの源泉のお堂の様子から察するに、おそらく湧出量が
かなり少ないのだろう。

浴室棟 浴室棟廊下
体はさっぱり、気持ちはモヤモヤで
6時ごろ湯からあがると、建物の外のイスにおじいちゃんが座っている。
ああ、人がいた。でもこの場面で老人がポツンと座ってるのもまたかなりブキミだ。
「泊まりのお客さんかな?先に風呂入ってましたかな。」
「あ、あ、はい。勝手に入ってました。誰もいなかったもんで・・・。」
「受付もまだかな。いまお手伝いさん呼ぶわ。おーい。」
ほどなくおばちゃんが現れ、登場した瞬間、両手を合わせて謝り倒してきた。
「どうなっとんじゃいこの宿は!どんだけ客待たすんや!」
と言われても仕方がない場面だと思うが、俺はやさしいのでそんなこと言わない。
「いやー誰もいないからかなり焦っちゃいましたよー(笑)。」
ちょっと留守にしてたみたいだ。細かい事情は敢えて聞かなかった。
川の向こうの浴室のとなりの建物に案内され2階に上がる。通された部屋は
思ったよりきれいな和室。ちょっと安心だ。すでに布団も敷かれており、
浴衣も用意されている。と、突然「ブオ〜!」とほら貝の音が。
おばちゃんに聞いてみると、ここの息子さんが吉野の行者で、薬師堂で
ほら貝を吹いているのだという。これまたブキミだ!宿泊客は俺一人。
宿帳もない。ほら貝が終わると、部屋からは川の音しか聞こえない。
その川音は、集中豪雨にしか聞こえない。

いつもここにいるおじいちゃん 部屋
6時半、言われたとおり食堂へ行ってみると、雑然とモノが
置かれている和室でおじいちゃんが普通に寝そべってテレビ見とる!
机の上には食事が用意されていた。その料理を見た瞬間「え?!」
すごい量だ。そして全部海の幸だ。山の中とはいえ、ちょっと車をとばせば
そこはもう熊野灘。タイ塩焼き、ガシ(だったかな?)の煮付、エビの鍋、
サザエつぼ焼き、サザエとカツオの刺身、もずく、茹でイセエビ。
料理は特に手の込んだものはない。焼く、煮る、茹でる、そして刺身。
いたってシンプルな調理法だが、地元の魚の一番うまい食べ方を知ってる
人たちが選択した料理。単純な料理だが、余分な手が加わっていない分、
素材のうまさがストレートにズシンと舌に来る。とにかくうまい!
一匹まるごとのイセエビのプリプリ感がたまらない。ツヤツヤしたカツオが
とろけるとろける。ビールもがんがんすすむ。絶対食べきれないと思ったが
楽勝で完食してしまった。最低料金の一万円コースでこのヴォリューム。
二万円コースなんてどうなるんだろう。

夕食1 夕食2

完食1 完食2
部屋に帰ってテレビを見ると100円テレビ。500円玉しかなかったので、
おつりの百円玉をつくろうと自販機でお茶を買って部屋に戻り、
ポチッと電源を入れてみると映りの悪い映像が映った。
金入れんでも映るやないか!東京ドームの巨人-中日戦。
立浪の2000本安打で中日も快勝したところで寝た。
夜中に目が覚めると、山の中で聞いたこともない声の動物が鳴いとる!
こわいよー!
翌朝、朝風呂に入り、8時に食堂に行くとおじいちゃんが昨日と同じ体勢で
テレビを見ていた。朝食も今朝紀伊長島の漁港であがったという新鮮な魚。
イカ刺しがうまい!イワシの煮付けひとつとっても新鮮さがちがう!
味噌汁のお椀はほとんどアサリで埋め尽くされている!量もある!

朝食1 朝食2
食べながら部屋の中に何枚も貼ってあるお坊さんの写真を見ると
「これ、おじいちゃんやないですか!お坊さんだったんですか?」
「坊さん言うか・・・。まあ行者やな。」
今年で93歳のおじいちゃんはこの宿の主でもあり、修験道の行者でもあった。
その後はもう食事中も食事が終わってもおじいちゃんの説法が延々と続いた。
そして「色即是空」の書と「ん」と書かれた朱印をくれた。
「ん」とは「運」が向くようにとの薬師如来の言葉だという。
「あんたには神様がついとる。神様があんたをこの有久寺に呼び寄せたんや。」
うーん、そうだったのか・・・。
部屋に戻り、着替えてチェックアウト。鄙びすぎの建物、てんこもりの地魚料理、
強烈キャラのおじいちゃん。とにかく鮮烈な印象を残した宿だった。
おじいちゃんが生きているうちにまた来てみたいと思う。おわり。
男の旅は一人旅へ