夜明けのタクシー


 Hホテルのロビーはまだ暗かった。フロントの照明だけがソファーのありかを教えてくれ
る。私は部屋から引きずってきた荷物を降ろし、ソファーに身を沈めた。外はまだ暗闇。
フロントに人影はない。時刻は午前4時50分である。
 今日の午前7時40分の臨時便で日本に帰ることになっている。空港までの車の手配は
昨夜のうちにガイドのボルドがしてくれた。ホテルから空港までは通常でも車で20分くらい
だ。早朝だし、道が混むことはないだろうから我ながらかなりの早起きだと思う。しかし、万
が一のことを思って、5時に迎えに来てもらうように頼んでおいた。万が一とは何かって?
事故?それもあるかもしれない。車の故障?それも考えられる。空港内でのトラブル?そ
れも怖い。しかし、一番可能性の大きいのは車に乗り込む以前の問題、つまり、チャータ
ーしておいた車が遅れてくることだった。
「明日の車は5時30分に頼んでおきました。」
昨夜、こう聞いた時、はいと返事をしかけて、とどまった。
「あのね、5時に変更できないかな。」
「どうして?5時30分で充分間に合いますよ。」
「いや、万が一ってことがあるかもしれないから、ね。」
「そうですか?じゃあ、変更しておきます。大丈夫だと思いますけどね。」
「お願いします。」
 こんなやり取りをしたのも、モンゴルでは時間がアバウトなことが多いからだ。もちろん、
時間に正確なモンゴル人もいる。ただ、そんな人たちでも、停電やら車やエレベーターの
故障やら、諸般の事情でやむを得ず時間に遅れてしまうことがあるのがモンゴルだ。時間
にルーズだと目くじら立ててばかりいても仕方がない。のんびり構えて、「モンゴル・タイム」
を楽しむくらいの余裕があっだほうがいいのは、百も承知している。私だって、ここ2.3週
の間はすっかり時計を気にしなくなっていた。
 しかし、今日ばかりは別である。予約してある臨時便に乗れなかったら、この先、いつチ
ケットがとれるかわからない。飛行機は直行便も韓国経由も北京経由も、8月いっぱいは
ツアー客で満席だと聞いていた。仕事は明後日から始まる。名残惜しいのはやまやまだ
が、いったんは何としてでも帰らねばならぬ。
 フロントに人影が現われた。こちらに気が付いたらしく、フロント内の照明を明るくして、こ
ちらをうかがっている。シルエットから考えると、昨日もいた若いフロントマンらしい。むこう
もこちらが何者か気づいたようだ。
「オハヨウゴザイマス。」
「おはようございます。」
 彼は日本語ができるが、複雑な話になるとまるで駄目である。しかも、あきらめるのが早
く、こっちが粘って意志の疎通をはかろうとしても、すぐに匙を投げてしまう。1週間前、この
ホテルに初めてチェックインしたときも、最初はお互いたどたどしい日本語とモンゴル語で
やりとりしていたが、話がややこしくなって彼の手に負えなくなると、途端に「わからない。」
の一点張りになってしまった。結局、私を訪ねてきた友人がかけあってくれて、無事チェッ
ク・インができたのだが、彼女も「少し調べればわかることなのに。」と怒っていたのだ。
 私は少し身構える気分で、フロントに近づいた。
「5時に迎えの車が来るはずなんですけど。」
「5時30分。」
彼は無表情のまま、答えた。
「は?いや、私は5時に頼んだんだけど。」
「5時、車コナイ。5時30分。ボルドサン、ソーイッタ。」
「いや、あの、その後で変更したでしょ?」
「5時30分。」
 フロントの連絡ミスか、それともボルドの怠慢か、確かめるすべはない。こんなところで
押し問答していても仕方がない。ようは5時30分までに車が来てくれればいいのだ。とりあ
えずは、おとなしく待つことにしよう。
 再びソファーにもたれて外を見る。まだ暗い。睡眠不足の体がきしきし鳴っている。車の
来る気配はいっこうにない。
 5時30分を過ぎた。まだ来ない。ロビーに日本人らしい男性客が荷物を抱えて下りてき
た。灯りがつく。ポツポツと団体客が集まりはじめた。車はまだ来ない。
「車、まだ来ないんだけど。」
ふたたびフロントマンに声をかけた。彼は無表情のまま、どこへか電話をかけた。しかし、
電話は出ない。時計は50分になろうとしていた。
「飛行機に間に合わなくなる。」
こっちまで日本語がぶっきらぼうになってきた。
「話にならないわ。社長呼んでよ。」
だんだん交渉がインケンになってきた。しかし、彼は相変わらず無表情のまま、別の
客のキーを受け取っていた。じりじり時間が過ぎていく。6時、6時10分・・・。
「別の車、呼んで!すぐ!飛行機に間にあわないでしょっ!」
「飛行機、マニアウ。」
「間に合わないっ!7時40分の飛行機よっ!乗れなかったらどーすんのっ!?」
「飛行機、8時30分。」
「ちがうっ!それはテーキ便。私はリンジ便!7時40分なのっ!」
途端に彼の顔色が変わった。慌てて外に飛び出して、しばらくキョロキョロしていたが、
すぐに戻ってきてこう行った。
「車コナイ。」
だから、さっきからずっと言っているだろうに。
「どうしたの?」
ロビーで煙草を吸っていた中年の男性が声をかけてきた。
「頼んでいた車が来なくて、困っているんです。」
「まーねー、ここはモンゴルだからねー、ハッハッハ。まぁ、そーゆーこともあるよ。」
「どうしたって?」
後から来た女性が男性に聞いた。
「この人がね、頼んでおいた車が来ないんだってさ。でもさ、モンゴルだからさ、やっぱり何
でも、早めに頼んでおかないとね。」
「いや、あの、早めに頼んだんですけど、来ないんで・・・。」
あせっっている時に他人に余裕の顔をされると、妙に腹立たしいものである。
「私たちのバス、余裕あるでしょ。乗せてってあげれば?」
「そうだな、添乗のOOさんに頼んであげよう。」
「ありがとうございます。」
 聞けば、彼らのツアーの乗る飛行機は、私の乗るはずの便より一時間後の定期便なの
だが、空港での手続きが混むことを予測して、ホテルを6時20分に出発するらしい。それな
らなんとか間に合いそうだ。
 相変わらず車は来る気配もないので、お言葉に甘えて便乗させてもらうことにした。荷物
を積み込み、すぐ降りられるようにドアに一番近い席に座らせてもらった。エンジンがかか
る。よかった。なんとかなりそう、と思ったその時、フロントの女性が走ってきて、バスの前
に立ちはだかった。
早口に何か喋っている。ガイドの男性が、慌てた顔で言った。
「部屋で飲んだ飲物のお金を払っていない人がいます。」
「おーっ、オレだ。」「あ、私も。」
わらわらと人が降りていく。文句を言えた義理ではないが、ああっ、もう・・・。
 絶望の淵に立たされた私の耳に、エンジン音が届いた。顔を上げると、白いおんぼろ
カーが一台、玄関の前で止まった。その車から一人の男が降りようとしている。その男は、
おおっ、ボルド!
 私はバスのステップに身を乗り出して叫んだ。
「ボルドッ!車来ないよっ!」
 振り向いたボルドの顔が、ええっと驚愕の色を表したのが見えた。彼は、動き始めてい
た白い車を追いかけて行って連れ戻し、私の方を見て叫んだ。
「はやくっ!これに乗って!」
 お礼もそこそこに、荷物を抱えてバスから飛び降り、車に向かって走った。ボルドが荷物
を担いで走る。後ろの座席に飛び乗り、ボルドが荷物を詰め込んだ。運転手と助手席の
アンちゃんは、何が起こったかわからないといった風情でポカンとしている。
「空港へ、急いでくれ!」
ボルドが叫んだ。運転手は言われるままに発車する。
「ありがとっ、さよなら!」
ボルドに文句を言う暇もない。
 角を曲がったところで、信号に引っかかった。運転手が振り向いて何やら聞いてきた。
「飛行機は何時だ?」
「7時40分、あと1時間!」
 気合いが入っているせいか、普段は訥々としたモンゴル語しか話せない私が、妙にスラ
スラ答えている。
 信号が青に変わった。途端に車は猛スピードで走り出した。市街とはいえ、今はまだ夜が
明けたばかりである。前にも後ろにも車はいない。対向車もいない。なにやらカチカチ音が
する。運転席を見ると、方向指示器が鳴りっぱなしになっているようだ。曲がっても直らない
ところを見ると、どうやら壊れているらしい。車はぐんぐんスピードをあげた。空全体が薄紫
色に染まっている。見慣れたウランバートルの街並が黒いシルエットのまま過ぎていく。モン
ゴル滞在の最後は、まるで逃避行のような迫力である。私はなんだかうれしくなってきた。
 運転席と助手席の二人は真剣な顔をして、「間に合うかな?」「急ごう。」と話している。
にやけてくるのを二人に気付かれないように、私は帽子で口元をかくした。
 空港のゲートが見えてきた。朝日が眩しい。空気は冷えているが、陽の当たるところだけ
ほんのりと暖かく感じる。
 空港に到着すると、二人は笑顔で振り向いた。「間にあっただろ」と言っているようだ。大丈
夫、十分に間に合う。彼らに料金を聞いてみた。二人は何やらボソボソと相談していたが、
助手席のアンチャンが提示した額は、私が計算してポケットに入れていた額より安かった。
 私はポケットに用意していた額を全部出した。
「ありがとう、急いでくれたお礼。」
と、言ったつもりだが、果たして通じたかどうか・・・。
 車を降りて二人と握手を交わした。助手席のアンチャンが、空港の入口まで荷物を持って
くれた。空港の建物の中は、たくさんの日本人が列を作って搭乗を待っていた。


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