わたしは靴下?


 明日には草原を去ることになっていた。草原で開かれた知人の結婚式に参列するために草原にやってきて、その夜までは友人の家族のために建てられた仮設ゲルで泊まっていたのだが、最後の夜は、近くに住む知り合いのゲルに泊まろうと約束していた。
 知り合いのゲルまでは仮設ゲルから歩いて10分くらいである。夕方、シュラフとほんの少しの身の回り品だけを持って、私はゲルに向かった。
 そこはすでに勝手知ったる他人の家。何度か訪れて泊めてもらっているうちに、お碗のありかも心得るほどになっていた。一家の主婦であるばあちゃんは、肉うどんの鍋をかきまわしながら「シーホー、お碗出してくれやー」と言う。私は黙って背後の扉を開け、お碗を取り出してばあちゃんに渡す。ばあちゃんは歌うように口の中で何かつぶやきながら、お碗いっぱいの肉うどんを渡してくれる。遠く離れた外国から年に一度やってくる私のことを、まるで町から来た親戚か何かのように扱ってくれるこの家族の気さくさがとても居心地良くて、ついつい入りびたってしまうのだ。
 この日も家族の静かな晩餐に加わって、穏やかに終わる・・・はずだった。
 夕食が終わり、一家の主であるじいちゃんはゲルを出ていった。女たちは寝支度を調えはじめる。私も床にシュラフを敷いた。
 扉が開いて、2.3人の人影が入ってきた。私と同じように今夜この家に泊めてもらおうとしている女の子達だ。一日ノホホンと暮らしていた私と違って、昼間、馬で遠出していた彼女たちはとても疲れているらしく、温かいお茶をすすると間もなく寝てしまった。さて、私も寝るか、とシュラフにもぐりこむ。まもなく、ろうそくの火も消され、私の意識も暗闇の中に溶け込んでいった。

 物音と怒鳴り声で目が覚めた。
 ろうそくの灯がともってゲルの中は薄明るい。シュラフの隙間から周囲をうかがう。隣のベットに誰か腰掛けている。顔は見えないが、若い男らしい。緑色のデールの裾と黒いゴタル(ブーツ)が見える。声の主はこの男らしい。酔っているのか、大きな声で威勢良く話しているが、ろれつが回っていない。彼の話し相手になっているのは、じいちゃんらしく、時々相槌を打つじいちゃんの声がする。他に人影はない。反対側のベットで寝ているはずのばあちゃんもいないようだ。それにしても、この人誰だろう。息子かな。いや、ここの息子は、まだ親の前で酒を飲む歳ではない。とすると、客かな?
 そのうちに彼の声はダミ声になり、いっそう大きくなった。じいちゃんを威嚇するように怒鳴っている。立ち上がった彼の肩は、がっしりとはしているが、まだ筋肉が付ききっていないようで、幾分少年っぽさが残っている。私に背を向けているので顔は見えないが、まだ20歳になるかならないかの若者らしいことは間違いない。そんな若者が、年配のじいちゃんを呼び捨てにしている。そうとう酔っているらしい。こいつはやばいぞ。これは寝たふりをしていたほうがいいかも知れない。起きたらめんどくさいことになりそうだ。私は目を閉じてそっとシュラフに潜った。
 じいちゃんは、子供をなだめるように若者に声をかけている。しきりに「寝ろ寝ろ」と言っている。どうやらじいちゃんは、この若者を寝かしつけるためにここへ連れてきたらしい。しかし、若者は寝る気など全くない。わめき散らしながら手当たりしだいに物を投げはじめた。缶が転がる音がした。制止するじいちゃんの声はするが、物が転がる音は止まない。わたしのシュラフの上にもいくつか落ちてきた。ちょいとやばいよ。どうしよう。こいつ、寝ているわたしらには気が付いているのだろうか。いや、気が付いていなくっても、寝たままの今の恰好はあまりに無防備だ。若者が立っているのは私の位置より入口に近く、逃げようにも逃げられない状況である。隣で寝ている女の子達は、この騒ぎをどう思っているのだろうか、と意識をそちらに集中してみる。しかし、聞こえてくるのは気持ちよさそうな寝息。よっぽど疲れているのだろう。これほどの騒ぎにも気づいていないらしい。これは困った。気づいているのは私だけか。となると、もし私が、裸足のまま猛ダッシュでゲルを飛び出して、隣のゲルに駆け込んだとしたら、今度は彼女たちが危ないぞ。困った、困った。おーい、隣のゲルのP さんよー、早く気づいて助けに来てくれー。Pさんちには若くて腕っぷしの立つ若いのが何人かいるのだ。
 「おう、なぁんだぁ?このくつしたぁ。」
若者が声を上げた。「でかいくつした。」
 何を言ってんだ?靴下がどうしたって?酔っ払いの言うことはわからんなぁ、と思ったその瞬間、わたしの足が浮いた。シュラフの裾のほうをつかまれたのだ。やばいーっ!気づかれるーっ!
 「もがっもがっ・・・」という声がして、わたしの足は床に落とされた。もがもがの声は若者のものである。じいちゃんの「寝ろ寝ろ、ここで寝ろ。」という声がする。じいちゃんがとうとう実力行使に出たらしい。そっとシュラフの口を開くと、じいちゃんのベットの上に若者が仰向けになっていて、その上にじいちゃんが乗っかかっている。全身で若者を押さえつけているのだ。私たちを守ろうとして全力で悪に立ち向かうじいちゃんの背中はスーパーマンに見えた。いやいや、今は感動している場合ではない。今は優勢のじいちゃんも、あと2.3分もしたら若者の力にやっつけられてしまうかもしれない。助けを呼ぶなら今だ。そう思った時、外がにぎやかになった。
 扉が勢いよく開いて、女性が三人入ってきた。じいちゃんの娘たちだ。彼女たちは早口に何かまくしたてながら、若者とじいちゃんを取り囲み、二人をしかりつけながら外へ連れ出していった。あれよあれよの早業である。外はしばらくやかましかったが、そのうち静かになった。女は強い。酔っ払いアンちゃんの扱いも心得たものらしい。まだ二十歳そこそこの娘たちだというのに、たのもしい。
 しばらくすると、じいちゃんだけが帰って来た。じいちゃんは黙って自分のベットに上がると、すぐに寝息を立て出した。どうやら騒ぎは完全に鎮静したらしい。若者は帰ったのか、隣のゲルで寝かされたか・・・。とにかく、やれやれだ。さあ、寝なおすか。
 ウトウトしはじめた頃、またしても扉が勢いよく開けられた。じいちゃんの名を叫ぶ若者の声。扉の向こうの夜の空間に若者の姿が黒いシルエットになって現われた。げげっまた戻ってきた!
 じいちゃんはベットから力なく答える。「なんだぁ?」
 「おれぁ帰るぜ!」
 「あぁ、行け行け。」
 じいちゃんはベットの上から手を出してヒラヒラさせた。
 若者の黒いシルエットは扉の端に消え、若者の曳く馬のシルエットが続いた。それが消えると扉はゆっくりと閉まり、若者の歌う歌が聞こえた。いくらか喉をしぼり、高く長く声を出すオルティンドーの歌唱である。馬のひづめの音とともに、その声は次第に遠ざかっていったが、歌声は丘を越えてもまだ聞こえているようだった。

 翌朝は何事もなかったように穏やかにはじまった。女の子達もだれ一人として昨夜のことを口に出すものはいない。娘もばあちゃんもじいちゃんも、いつもと変わらない。昨日のあれは夢だったのだろうか。夢、かもしれない。だって、若者の、あの去りかたは、まるで大きな影絵のように幻想的だったし、馬のひづめの音も歌声も、あまりに美しく耳に残っているのだから。
 それにしても、シュラフを「オイムス(靴下)」と形容したあれは・・・。あれが夢だったとしたら、わたしのダジャレ能力は、かなりキテイルようだ。
 


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