壁


 僕は、どうも壁という奴に心を奪われてしまったらしい。授業中、暇になると落書きを し、睡魔に襲われれば、それに身を凭せ掛けて昼寝と洒落込む。
〈壁は部屋を作り、個性を作り、時に狂人を作る〉
 壁にそう書かれているのを、友人のA君が見て、「壁の思想!」と言って笑顔を表した のを憶えている。実は、それは僕が書いたものなのだが、別段思想をまじえようとした意 図があったわけでもない。しかし、それを思想に変貌させることは無理ではない。頭の中 のチャンネル一つで、どのような姿にもお好み次第。まずは試しに、例を見てみることと して、某青年の日記の一ページを覗かせてもらうとしよう。

 ○ 月×日(△) 疲れきった空模様
 乾燥した砂が、胸の中でいっぱいの砂漠の世界を形成している。四方を壁によって区切 られ、こうして小さな部屋が存在して、その中に一個の人間がおり、そして広大な砂漠を 所有している。私は、電球に思い切り身体をぶっつけながら羽の音をうるさくたてている 蝿をうっとおしく思う。多少の妬みを含ませて。蝿のような過去の自分は、四方の壁を破 壊することも試みた。否、その時それを、壁とは知らず扉だと思い込んでいた。それ故に 試みもしたのだろう。しかし、破壊が達成されたと同時に、扉だと思っていたものが壁だ と分かり、その向こうを眺めた時、指先の爪の痛みが重なって大きな空しさを覚えた。そ こには、また壁があったのだ。空しさは、私の胸の中に乾いた砂を送り込んだ。しかし自 分の目には、それがまた扉に見えてきたものだから、同じ破壊を試みた。そして、その度 に壁なのである扉を壁と理解し、また同じものを見て、そして砂は胸の中へ。そのうち現 実を見詰められる目を成長させ、扉などと思い違えることはなくなり、今では四方すべて 真っ黒い壁であることを認めている。それに、胸の中の乾燥した砂は既に飽和状態に達し、 完成された砂漠を固持してしまった。そうした現在、私が為すことは、内面で駆けずり回 り息を切らし、外へは行き止まりのどっちらけのように何もせず何もできず縮こまってい る。そして、いつかまた私が働き出す時は、きっと壁の認識を忘却した時であり、砂漠に 雨が降った時なのである。私は知っている。夢中とは、周囲を忘れ、その最高点は我をも 忘れる時であることを。

 彼は、自分の現状を壁に準えて、考えている。把握度の増大が抵抗値を上昇させるとい う論理が、どうして壁の思想になり得るか? そういった疑問は、まったく必然的であろ う。何故なら、壁の思想というと、人々は壁が思想を所有していると思いがちでいるから である。では、ここでその壁自身に弁明の言葉を述べてもらうことにしよう。

 壁……ミーは壁ちゃんです。ミーは猫でも犬でもないです。勿論、人間であろうはずが ありません。ミー自身がどうして考えたり話したりできるでしょうか。ミーは壁ちゃんで す。何故なら、壁ちゃん以外の何物でもないからです。

 僕はここで、壁に語ってもらった。しかし、これを誰が壁自身語ったと思うであろう。 壁を擬人化したり、比喩などで用いたりする。しかし、それは僕たちが壁を一実在物と確 信しているがために施すのである。壁が持つ忍耐力もエネルギーも、これすべて外部から の作用から成立する反作用に存するのである。壁というと、僕はある人物を思い出す。サ ルトルと安部公房である。この二人の作品に『壁』と題されるものがある。前者の作品に は、死刑囚が処刑場の壁の前に立たなければならない場面がある。そこを頂点として、壁 とは人間のぎりぎりに追いつめられた場所(実存の限界域)であることを物語っている。 後者の作品の主人公であるS・カルマ氏は、実存主義者であるようだ。作者自身、この主 人公は「事故に対してまじめで誠実であることによって、その無意味さをバクロする。私 がバクロするのでなく、彼自身が哲学的な表情で自分の首を絞めてみせてくれる」と語っ ている。この作品の壁とは、主人公のそうした追いつめられた(自分自身に)ところに立 ちはだかっているものを意味するのだろう。両者にとって、壁の存在は、やはりその実在 でしかないのだ。

 ライトブルーが、汚い落書きの上に覆い被さっていくのを心から楽しんだ。先日、数名 が集まって、ある部屋の壁色の塗り替えを行なった。壁の実在の有無を僕らが左右するこ とは到底不可能なことだが、印象の変化は可能である。むしろ、それを決定するのは、こ ちら側でなければならないのではなかろうか。壁のテーゼが不偏なのは、その影響たる理 由がほとんど主観的であるからだと思う。作業の最中、僕はMさんが身につけていた服装 が壁のライトブルーと同色であるのに目を見張った。彼女が壁に寄りかかると、その部分 が同化されていくのではないかという気分に駆られ、彼女に対して、認められないほどで あるが、妬みというものを抱いてしまった。僕は壁の存在を受け入れる人種であろう。壁 に身を委ねたいという欲求を持っている。大勢の者とともに一つの部屋に入れられたら、 誰よりも先に一番頑丈そうな壁を見つけて、その場所を占領するであろう。僕にとって壁 に身を委ねる以上の壁への同化は、最高のものである。
 ならば、同化して壁になりきってしまいたいのか? その問いは、酷い不審をを抱かせ る。同化がもし壁になりきってしまうことなら、そこで、もう壁への認識は皆無になって しまう。僕が意味するところの同化とは、まったく逆で、認識の最大値をとってくれるも の。そして壁への認識は、同時に自分自身への認識となる。壁の頑丈さを知り、自分の弱 さを知る。壁の冷たさを感じ、自分の体温からの生命を感じる。
 壁は頑固とした物質。そして、壁の存在否定は、ここから始まる。肯定された壁に、思 いを託して自分の世界を描く。それが新しい世界が開ける時。そこには、まさに壁を無く した世界がある。その存在の否定。しかしそれは、肯定された上に形成され、「やはり」 という言葉が肯定へ促す。そこへ辿り着く以前の僕は、今、壁に身を委ねる。

 蛇足……僕の壁への思想からすると、引用した日記は、僕のものかもしれない。