はじめに
         〜安部公房作品は、今〜


彼、安部公房は精神を精神的な表現で捉える無意味性を知っていた。
悲しみを「私は悲しい」と語っても、「あそう」で終わる、 そういう時代であることを知っていた。
現代文学と呼ばれながら、 近代文学の延長で、その現代文学をひとつのアヴァンギャルドとか、 シュールレアリスムとか、特別な、否、無範疇的な捉え方をされ、 彼の無国籍的な生き方と同様に、 ジャンルに入れられない対象を盲目的に、 そういう世界へ入れる批評家の無差別虐殺的な見舞われた。
勿論、そうした日本の戦後からもはや戦後の時代ではないと言われる時代の中でも、 しっかり見据えていた人々もいて、 例えば、自らよりも彼こそがノーベル文学賞に価する人といった大江健三郎のような人もいる。
さらには、それは、日本よりも諸外国に多く、 特に、共産圏での評価は格別的に的を得ているという。
彼の考え方が、実は本来、物質的で都市的であることから、 より欧米諸国で受けてもいいはずなのだが、 それよりも体制と自らの生き様のギャップを感じて止まない共産圏の人々に 指示された作品が多いのは確かだ。
では、彼の作品は、そういうコミュニズムへの反発なのかというと、 それもひとつの大きなテーマだが、 欧米や日本の分別のある人々が彼に共感を訴える人々は、 むしろ、そういう分かりやすいコミュニズムなどではなく、 いわゆる自由主義、民主主義でうごめく、物質文明社会、都市的文明社会を謳歌する 先進国といわれるところで、いつのまにか、人間が年限として生きることへの迫害、 いわゆる疎外が病魔の如く進行していることを彼が 精神の疎外を精神で語るのではなく、 その物質文明社会や都市的文明社会で欧化すべき道具である物質や肉体や技術というものを通して、 語りかけてくる点にある。
何度も言うが、彼は、精神よりも物質や肉体を謳歌する人々に、 自らも含めて、精神的表現では伝達できない、その徒労感を初めから持っていた。
彼は、そこで自らの表現に物質と肉体を手に入れたのだ。
ただ、世に蔓延る文学者や批評家は、 そうした現代人の感覚よりも、自らの生きる糧として 古い文学論や文学とは何ぞやの既製品から脱却できずに、 先にも述べた、彼へのレッテルを 現代文学をひとつのアヴァンギャルドとか、 シュールレアリスムとか、特別な、否、無範疇的な捉え方をされたのだ。
実は、そんな人々よりも、 今、もっと無分別に時代を謳歌しながらも何か違う、 そういう曖昧かつ不条理な存在感覚の中で生きている若者の方が、 彼の作品を読めば、感じるものが多いのではなかろうか。
安部公房は20世紀に生きた。そして、多くの人に読まれた、が、 その解釈は、彼に素晴らしいレッテルを与えた人々の手によって 壇上の上のほうに祭り上げられ、本来読んで欲しい人々の手に届かないところに奉られ、 そのまま形骸化しようとしていると思う。
彼にレッテルを与えた人々の解釈など、よっこいしょと、ほうっておいて、 自由に読んでいただく、それも、文学の「ブ」の字も知らない若者に。
それが今、一番有効じゃないだろうか。
彼の作品は、何も正当かつ正確な解釈を必要とするものではないし、 小難しい批評を強要するものでもないし、 間違っても、今、コンピュータ業界が大好きなソリューションなどという、いんちき問題解決を 目的としてはいない。
むしろ、問題提起なのであり、現代社会の中で悩み、疎外を受けている人々に対し、 そうならざるを得ない世の中である現状を、違った角度から垣間見させてくれる。
あくまでも、興味がもてない、関心がもてない、 文学や芸術にエンターテイメント以上のものを求める気のない方には、 何も語るべきものはないかもしれない。 でも、どうすればいいか、名言も手立ても明らかにしてはいないだろうが、 逆に、自分が自分であるためには、どんな思考回路を持つべきなのかは教えてくれる。
自分らしさを手に入れるために、もっとも自分らしいと思うブランドや形を求める、 その精神よりも物質や技術など、ランク付けする世の中から逸脱したい欲求が 違うランク付けにはまって、右往左往している人々、 そういう人々に、安部公房は今、シニカルかつペーソスな笑いのカンフル剤を与えてくれると思えて仕方がない。