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◎「外界を変革する対象と見ることで、虚無から創造する肯定的な明るさを知ることが出来る。
いや、そんな文学的な言い回しはよそう。虚無などとははじめから存在しなかった。」(「ヘビについて I」)
→→→虚無とは創造の条件(の条件)。常識系の壁自体も、虚無からの創造であり、そして習慣によって見えなくなったもの。
◎「なにも日常性を否定することはない。しかし、たまには日常の外の空気を吸ってみるのも、精神の健康のためには必然なことではあるまいか。
現に、蛇と日常を共にしている、蛇つかいは、蛇に対してなんらの嫌悪も感じないという。そして、このことは、かならずしも実際の蛇だけに
かぎったことではなく、政治的な蛇、思想的な蛇、文化的な蛇、その他さまざまな蛇についても、同様にあてはまることなのではあるまいか。」(「ヘビについて II」)
→→→政治家、思想家などへの懐疑の必要性・・・何故なら蛇つかいにとって蛇に対する事は日常に他ならないから。
我々に関心の必要性・・・何故なら、我々にとって蛇は不気味なものというイメージを抱いているから。
◎「偏見の成長とは、対立物を自覚するということである。・・・・・・正見と偏見の衝突が引き起こす、認識の活性化・・・。」(「ヘビについて III」)
→→→言葉だけの理論に感じられる可能性がある。
◎「日常の論理にすくなくともひびくらい入れるものでなければ、なにもわざわざ仮説を持ち出したりすることもない」(「SFの流行について」)
→→→必要性の判断
◎「顔一般であって個々の顔の特殊性ではない」(「文体と顔」)
→→→非実存的
◎「生活の中で条件反射が形成する顔の個別性を追究しなければならない。」(「文体と顔」)
→→→実存的
◎「絶対の美女―本当は美しくない美女―は夢想家の恋人になり、真の美女はリアリストの恋人になる。恋人によって思想が判断される。」(「文体と顔」)
→→→「美女」及び「恋人」は「文体」の比喩? 逆説的な場合もある。
◎「運動員 (頭をかかえこんで)畜生!」(「自己批判」)
→→→展開の移行がスムーズであり、それ故に真に理解される。理解されるとは、即ち、最後の運動員の「畜生!」という言葉を持つことになってしまう。
◎「もっぱら忠誠は善、転向は悪と割り切ってしまう、明治以来の伝統的美徳だけでは、どうやら左右を問わず、いまだに健在のままで生き延びているらしいのである。
忠誠でもなく、裏切りでもない、第三の道というものはありえないのだろうか。」(「幕末・維新の人々」)
→→→忠誠、裏切りを超越するもの=自己(他に拠り所を求めぬ)ー自由におけるアンガージュマン
◎「現代の王様は「裸の王様」の王様のようにはお人好しではない。裸だといって笑った子どもをひっ捕まえて、即座に叩き殺してしまうに違いない。そうすれば、子どもたちは再び王様の、見えない着物が見えてくるといった仕組み」(「種のない話」)
→→→法(規則)によって罰せられることも含まれる。これは権力の強さに結びつく
◎「笑いの天国で暮らしていれば、笑いが退屈になるのも無理はない」(「種のない話」)
→→→喜劇の悲劇性。悲劇の喜劇に対する侵入。
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